●口のきき方
ライター:ダース=トリオムーン@ミナロ
「メール人格」なる言葉をみかけた。
(今回はかなり長いぞ。覚悟はよろしいか?)
メールだけのやりとりだと「コワイ人」かと思っていたのに実際に会ってみたら「やさしい人」だった。みたいな話だった。
まったく逆のケースもあるだろう。
ブログの文章を読んだ印象だと「かなりハジけた明るい奴」が実は「ネクラな奴」だったり。ってな事は良くある話。
逆のパターンってあるのかな?
「ウェブ人格」と言いかえても良いかも知れない。
果たして「その人物」の人格(=キャラクター)はどちらが本物なのか?
普段隠していた人格がウェブ上だと解放されるのか?
だとすれば「ウェブ人格」が本当の人格だと言える。
それともウェブ上では別人格を演じているだけなのか?
ならば演じている主体が本当の人格だ。
と言っても両方とも「その人物」の中から出てくる「表現」だからどちらも「その人物」なんだろうが…。
単なる「使い分け」だけの話で「人格」はトータルにみるべきなのか。
でも「ある一面」しか知らない人物だとその「ある一面」が自分にとってはその人物の全てだしね。
仕事だけの付き合いならなおさらですな。
で、そこから色々考えてみた。徒然なるままに。
「言葉は人格を作るのか?人格が言葉を選んでいるのか?」
「制服効果」みたいなモノがあるんだろうな。
ある人物の「キャラクター」の「本質」と「話す言葉」との間の関連性はいかに?
「おねえ言葉」を話す「いかつい男」の正体は?
(知り合いにいるんですよ。会話の中で時々「~よねぇ。」って言う人が。)
全員が「ゲイ」とは限らない、ってのは経験的に判るけど。
(「精神的ゲイ」みたいな存在か?)
「その人物」の「本質」が最も端的に現れるのは何処なのか?
「言葉」「服装」「持ち物」「仕草」いったい何処だ?
(プロファイリングだねまるで。)
直接会って「会話」をした時の印象ってのがあるじゃないですか。
「ウェブ人格」になぞらえて言うと「会話人格」とでも言うべきか?
何だか「それって人格そのものじゃないのか?」と言うより
「そこから人格を推し量るのが一般的な考え方じゃないのか?」
ってな疑問も残るから
「タマゴとにわとり」みたいで何だかスッキリしないけど。
「発話」ってことは数ある表現の中の一部であって
「キャラクター」を表す要素のひとつと考えれば
決して「会話人格」が「キャラクター」の全てを表している事ではない
とも考えられるでしょ。
「乱暴な言葉遣いの人」が「すげー繊細な良い奴」だったり
「慇懃無礼」てな言葉もあるくらいだから
「言葉が丁寧で物腰が柔らかい人」が「もの凄~く嫌な奴」だったりとかあるからね。
だから「会話人格」。(まだ、な~んか違和感あるけど…。)
それでも、「他人」にとっては
「会話人格」が「その人物」の「キャラクター」の主役になるのが普通だとは思う。
だって、「その人物」の全てを見届けるなんて事は無理なんだから。
普通は直接会話をした時の印象こそが「その人物」像でしょ。
「オフ会」で会ってみて、「こんな人だったんだぁ。」とは思うけど
「(オンラインとは違う)意外な一面を見たなぁ。」とは考えないでしょ、普通は。
で、私が見た、「会話」と「キャラクター」の関係を表す事例をば。
その日の午後私は電車に乗っていた。
丁度座席が全部埋まり2~3人が立っている感じの混み具合だった。
ある駅で「おばさま三人組」が乗ってきた。
(見た目はどちらかと言うと「おばさま」というよりも「おばはん」と言った方がふさわしい感じだったのだが敢えて「おばさま」と言っておきましょう。)
ドアの脇に立っていた私の目の前に「おばさま三人組」は陣取った。
何の気無しにその「おばさま三人組」を見ていたのだが、直ぐにある事に気が付いた。
「おばさま三人組」は「手話」で会話をしていたのである。
で、その「おばさま三人組」のおしゃべりが「うるさい」のなんのって。
手話だから「声」は出ていないんだけど。もう三人が三人ともしゃべりまくり。
めっちゃ「うるさい」んですよ。視覚的に。
手話だから内容はサッパリ判らないんだけれどもね、ほんっ、と良く喋る。
ちゃんと会話が成り立っているのか疑問に思うくらい。
「相手の言ってる事、ちゃんと聞いて(見て)るのか?」とね。
その時初めて目撃しました、「手話のマシンガントーク」を。
ここで判った事。
「おしゃべりな人」はどんな状況でも「おしゃべり」。
「見た目のキャラクター」と「会話人格」の間にはかなりの相関関係がある。
「おばはん」は「おしゃべりな生き物」である。
そして次の事例。
とある中国人留学生の女の子達の話。
中国から「日本語が喋れない状態」で来日して日本語学校に通い「カタコトの日本語を話す」様になりそして大学に入学して「不自由なく日本語を話せる」様になっていく過程を三人ほど見てきた。
今では皆日本で就職していて日本語は「ほぼ完璧」になっている。
来日当初の「日本語が喋れない状態」の彼女達でも中国語での会話の様子を見ていると中国語が判らない私にも「キャラクター」がそれぞれなんとなく判ってくる。
「ブリッ娘キャラ」だな、とか「ボーイッシュキャラ」だな、とか「生真面目キャラ」だな、とか。
三人はそれぞれ、まさにその「キャラクター」だった。
それから彼女達は日本語を身に付けていく事になるのであるが面白いことに三人はそれぞれ、私の見立てたキャラに合った日本語を使う様になったのである。
「ブリッ娘キャラ」の子は「~じゃな~い。」みたいな、あまえたな日本語を話し「ボーイッシュキャラ」の子は「~だろ。」とか、男みたいな日本語を話し「生真面目キャラ」の子は「~です。~ます。」と、丁寧な日本語を話すようになった。
「こんな娘」は「こういうしゃべり方」するよね。っていうイメージ通りの日本語を。
勿論、彼女達は優秀なので、「フォーマル」と「カジュアル」の使い分けも出来て敬語をきちんと使いこなせる。そこら辺のバカ(日本人)娘達よりもよっぽどちゃんと喋る事が出来る。あくまで「カジュアル」な場での言葉だ。
彼女達の場合は「外国語」の習得の過程なのだから子供の成長のように「人格」と「言葉」の成長はパラレルではない。
既に「人格」が出来上がっていて、後から「言葉」を「習得」しながら使っている。
元々「キャラクター」が有ったところに「言葉」が付いていったのではあるが
私にはまるで「言葉」が「キャラクター」を作っていったかの様な
「人格」が出来上がっていく過程を見ているかの様な錯覚があって面白かった。
余談だが(初めに「長い」と宣言してるので遠慮無し。)
多くの人が、<言葉のレベル=知能レベル>と誤解しがちであろう。
<「カタコトの日本語しかはなせない人間」は「知能レベルもカタコトレベル」である>と。
母国語がカタコトならその可能性もあるかもしれないけど、外国人には通用しない。
日本語がカタコトでもその事と知能レベルは別である。
かく言う私もつい「日本語を分かり易く話している」つもりがいつの間にか「子供」に話すかの様に話してしまっている事に気付く事がある。
というか相手を子供扱いしてしまっている。
言葉の「意味」を説明しているつもりが、いつの間にか「内容」を説明している。
どういう事かと言うと例えば、日本語の「犬」を伝えるのに「イヌ」="dog”と伝われば充分なのに、「ワン、ワンって啼く動物で~」とか余計な説明をしてたりする。
相手にしてみれば「”dog”くらい説明されなくても知っているっちゅーの。」てなもんである。
なんとも失礼な話ではあるのだが。陥りがちである。
この辺の誤解が日本人の「アジア人差別」に影響しているのではないか、と思う。
平たく言っちゃうと
(自分がいくら勉強しても話せるようにならない)「欧米語」を話す欧米人は知能レベルが高くてスゴくて「日本語」もまともに話せないアジア人は知能レベルが低い。ってな誤った認識。
本当のところは、英国生まれのバカはどんなにバカでも「英語」が話せる。
犬ですら「英語」を理解する。
日本語が出来なくても英語が堪能なアジア人はそりゃあたくさん居る。
フィリピンの女の子なんかは殆ど「英語」が話せる。(読めない子はいるけどね。)
そこんところが判っていない。自分の方が英語が出来ていないのに。
「日本語会話」能力と「英会話」能力が基準になっちゃっている。
同様にフランス語やドイツ語なんかの欧州の言葉もランクは上の方にある。
欧米に対してのネガティブ=コンプレックスが今だにある。
「アジア」よりも「欧米」の方が上っていう。(文明的にそんな時期も有ったかも知れないが。)
自分達(日本人)だって「アジア人」なのにねぇ。
戦争に負けたことが効いているのか?
余談でした。
(さて本文に戻って。)
きっと彼女達は大学での友達との会話の中で日本語を覚えつつ自分のキャラに合ったニュアンスの日本語を「選択」して使うようになっていったのであろう。
では、その「選択」は意識的に行われたのだろうか?
ここでは「わたし」を使うべきなのか「おれ」というべきか「あたし」なのか、「わたしぃ」なのか。
中国語では「ウォー」(我)で殆ど事足りたのが日本語では選択肢が沢山ある。
私が考えるに、日常会話(カジュアル)レベルでは「意識はしていない」と思う。
これは日本人でも同じでしょ?日常会話では。
いちいち「オレ」や「私」を意識して使い分けないよね。
相手が変われば意識的に使い分けるけど、基本的には。
まあ、「出来ない奴」もいるけどね、時々。
では、その時の「選択基準」は何なんだろうか?
「自分が相手にどう見られたいのか。」これが答えだと思う。
これは彼女達に限らず、全ての人が持っている「基準」だろう。
「見られたい」理由はそれぞれだろうが人は「相手の目に映る自分」を自分なりにコントロールしようとしているからである。
だから「人格」に「ウラオモテ」が出来たりもする。
この意識の強いと「ブリッ娘」と呼ばれるし、弱いと「変わり者」とか呼ばれたりしちゃう。
「無い」とどうなる?もはや「人」ではなくて「動物」か?
「仔犬」は「こうしたらかわいく見えるだろう。」とかって<考えて>行動していないよね?きっと。
してるのか?してたら怖いなぁ。かわいくないよなぁ、それじゃあ。
ただ「コドモ」って本能的に「かわいく見える」様に行動しているって聞いたことある。「ヒト」に限らずどんな動物でも。
「オトナ」の助けを引き出せるように。生き残る為に。
「オトナ」の方にも「コドモ」を見て「かわいい」「守らなければ」ってなるようにプログラムされているんだとか。っていうかコッチが本筋かな。
動物は皆、「コドモ」の行動を「かわいい」と感じるように出来ている。
それが「母性」(のようなもの)。
だから「オオカミ少女」は<喰われないで生き残れた。>
「オオカミ」の目から見ても「ヒト」の「コドモ」はかわいい。って事。
よほど腹減ってりゃ話は別だろうけどね。
またしても話が有らぬ方へ行こうとしているのでここで強制終了。
お疲れさまでした。(えっ?本当に終わり?)
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コメント
>「自分が相手にどう見られたいのか。」これが答えだと思う。
せっしゃもそう思うであります。
鳥右衛門どの。 拙、近ごろは横浜の地域SNSの盛り上げを手伝いはじめました。 → http://sns.yokohama150.jp/
ミクシと同じく、今の時点では紹介制なので、親方のところのにメールを送っておきました。 ご確認をお願いいたします。
▲コメント投稿者: 寺崎@フォト担 (Sep 3, 2007, 12:45:12 AM)
合点承知之助!
▲コメント投稿者: ダース=トリオムーン@ミナロ (Sep 6, 2007, 5:50:37 PM)