●「躾」
世間一般から見れば「虐待」に見えても一徹父ちゃんにとっては立派な「教育」です。
飛雄馬にとっても結果的には「良かった。」と言う判断でしょう。
一流の野球選手にする(なる)という「美意識」がブレなかった結果です。
「身」が「美しい」と書いて「躾」と言う字になります。
では何を「美しい」とするか?「美しい」とはどういう事か?
これは本人の「美意識」に依拠します。
絶対的な基準は有りません。人によりけり、相対的なものです。
「美」という漢字の成り立ちは「ひつじ」が「おおきい」と言う事だそうです。
「羊が肥えて丸々と大きい事」が「美しい事」とイコールの価値観です。
今の自分たちの「美意識」とは大分違っていますが
文字が生まれた頃の「美意識」はそう言ったものだったのでしょう。
じゃあ、「正しい美意識」と「正しくない美意識」
と言う区別はあるんでしょうか?
「躾」のなっていないと思われるクソガキがいたとしても
それはそのクソガキの親の「美意識」と私の「美意識」の差から
来る認識の違いであって
親が「ちゃんと躾けている。」と言えば「躾は為されている。」
と見なすべきなのでしょうか?
子供を虐待して捕まった親はこう言います。
「躾であって、虐待ではない。」
それは言い換えると
「これが私の美意識だ。間違っていない。」って事になりそうですが
それでよろしいのでしょうか?
「美意識」が無ければ「躾」は成立し得ないと言っても良いでしょう。
「美意識」の無い「躾」は只の「虐待」です。
「虐待」で子供を傷つける様な人間には「美意識」なんてモノは欠片も無いと思います。
でもこれは私の個人的な「美意識」です。
他人押しつけても良いものでしょうか?
「伝統的に正しいと言われている美意識」と
「全く新しい価値観に基づく美意識」とが
真っ向から対立したら
どちらかが「正しく」てどちらかが「正しくない」と
誰かが判断出来るのでしょうか?
「どちらも正しい」なんて、したり顔で言えば良いんでしょうか?
イギリス人が子供に「正しい箸の使い方」を教えなくても
誰も「躾が出来ていない。」とは言いません。
でも日本人が子供に「正しい箸の使い方」を教えないと
「躾が出来ていない。」と言われます。
イギリス人の生活の中に「箸」は有りませんから当然ですね。
その代わりイギリス人が「テーブルマナー」を心得ていないと
「躾が出来ていない。」と言われそうです。
「躾」という概念に相当する英単語は何と言うのか判りませんが。
<先人が長い時間を掛けて造り上げてきた「伝統」を大切にする事>を「美しい」
とする「美意識」の対象の違いだけですね。
日本人は「箸を(伝統的に正しいと言われる作法で)使う事」を「美しい」と感じていると言う事です。
どこの国でも<「伝統」を守る事は「美しい」事である。>と言う認識は共通していると思います。
殊に民族的な「伝統」に対しては大切(誇り)にしている人が沢山いるでしょう。
ですから、世界では紛争が絶えないとも言えます。
話がかなり飛躍してしまいましたが。
要するに養老先生が言うところの「バカの壁」が出来ているって事です。
親に「躾」られた子供に自我が芽生え
子供本人の中に生まれた「美意識」が親の「美意識」と違っていたら
子供は自分自身の「美意識」に則って自分自身を躾し直すべきである。
時には親の「美意識」を否定する事にもなろうとも。
無批判に親からの「躾」の結果を受け入れたままである、と言う事は
親の「美意識」を自己の「美意識」として受け入れた。
若しくは親の「美意識」に対抗出来るほどの自己の「美意識」を持っていない。
と、言う事でよろしいですか?
子供が箸の使い方がおかしいのは親の責任だが
成人してからもおかしいのは本人の責任である。
「いい大人なんだから、箸ぐらいちゃんと使える様にしなさい。見苦しい。」
と、言うのが私の「美意識」です。
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